男妾なんていう言葉があります。今考えると彼女とはそんな出来合いのカップルでした。
出会い系サイトミントC!Jメールで知り合った彼女。
売れない寄席芸人だった私は、ことあるごとに彼女を呼び出しご馳走に預かっていました。
28歳の私は15歳も上のバツイチ女性と禁断の恋を営みました。
彼女には二十歳を頭に三人の男の子供がいましたが、そんなことは気になりません、むしろ他人の女房を寝取ったような快感がありました。
出会った場所は横浜の中華街。
たまたま隣り合わせたテーブルで紹興酒を飲んでいた私たちは、ふとしたことから会話が弾み、桜木町のバーへ向かいました。
芸能人で例えると檀ふみ似といったところです。
年齢は43歳。
私が28歳。
そこそこ売れっ子の小説家だった彼女はよく焼き肉を食べに連れて行ってくれました。
最初の出会いからふたりは枕を交わし性的衝動を慰めあいました。
43歳といえば女ざかり、ましてやバツイチで欲求不満だったのか、尋常なく求めてきました。
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そして二十代だった私のからだもそれ相応に対処できました。
伊藤晴雨という昭和の緊縛絵師に憧れていた私は、麻縄で彼女のを責めることに興味を覚えました。
熟れた彼女の肉体は麻縄の交錯する緊縛には絶好な餌食でした。
私は欲望の赴くままに縛りました。
慣れてくると面白いように麻縄が彼女の肉体を包みました。
肉と肉の間に軋む縄の感触。
彼女も実はḾだったのか、はじめのうちほど恥ずかしがっていたが、徐々に従順に私の嗜好になびいてきました。
縛り終えた後のいささか痛ましい縄の痕跡も欲情を駆り立てました。
しかし、時は残酷なものです。お互いくたびれたように二日に一度会っていたのが週イチとなり、そして月イチ。逢瀬のペースはだんだんと減っていきました。
もっぱら、縄に溺れていくのが二人の関係と化していき、求め合う愛欲の変遷もさまざまに意匠を極めていきました。
転機が訪れたのは交際して四年目。
私がセックスを求めないことへの不信からでした。
すでに一人前の縛師にでもなった気分でいた私は、ほかの女性とも縛りの関係(契約)を結んで、我ながら充実の日々を送っていたころです。
「わたしのことが気持ち悪いの?」
唐突に彼女は詰問してきました。
十五歳年上であるわが身を不浄の対象として洞察していたかのようです。
私は返事に困りました。正直言ってもう飽きていました。
ただ、ここまで私の性癖に身をやつしてくれた女性は彼女を置いて他にはおりません。
結局、私たちは器官と器官を接合するだけの上下運動をそのとき一年半ぶりにいたしました。
病葉が落ちるように私たちは時を経て冷め切った間柄となりました。
長男が地元のラジオ局に就職し、妻を得、そしてできちゃった婚。彼女はおばあちゃんになったのです。
冷めました。
孫と団らんを囲む彼女の姿など到底想定外のことでした。
彼女は仕事がら地方での講演活動が多くなり、まして初孫のできた嬉しさから私を疎んじるようになったように見えました。
一方で、私は売れない芸人のままでした。
私は趣味でカメラをいじっていたので、彼女との密会的な緊縛絵図をフィルムに落としておりました。
また、別のパートナーの写真もだんだん増えていきました。
もちろん、それは内緒にして隠しておりましたが……。
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そうこうしているうちに私も三十代半ばとなり、結婚も視野に入れて生活を立て直さなければならない時期にさしかかってきました。
芸事では食っていくことができず、かといって彼女と毎日会って食わしてもらうわけにもいきません。
自らの糧道をみずから補わなくてはなりません。
所属していた芸能事務所を退所したのもそのころです。
私は屋号を掲げ緊縛フェチ系のDVD制作に勤しみました。
それを機に彼女とはそれとはなく距離を置き始めました。
すると相手もそれを察してか、頻繁にあった電話の音が次第に疎くなってきました。
たまたま、秋葉原にあるアダルトビデオ店の社長さんが私の運営していたサイトを見つけ、うちでも販売させてくれないかと打診がありました。
男三十五にして迷わず、私はDVDの監督兼男優兼販売者として独り立ちをしました。
芸道はあきらめきれず現在でも何ケ月かに一度だけ独演会を開催して面目を保っている。
彼女と過ごした年数は結局あしかけ十年に及んだ。
母としての彼女は良妻賢母とでもいうのか、ぬかりなかった。
音信不通になってから数年が過ぎた。現在でも当時の写真帳は大切に保管している。
そして某有名緊縛師の名前弟子のような扱いで、ときどき幕間で緊縛ショーのお手伝いをしている。
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